・・・・・・・・・・・・・
ケニー・オルテガ
・・・・・・・・・・・・・・
THIS IS IT
ダンサー

・・・・・・・・・・・・・・
The Wiz
ヘアメイク担当

・・・・・・・・・・・・・・
テディ・ライリー
・・・・・・・・・・・・・・
フィリピン
マニラホテル
広報担当者

・・・・・・・・・・・・・・
ジョン・ランディス
・・・・・・・・・・・・・・
マジシャン
リアム・シーハン

・・・・・・・・・・・・・・
VANITY FAIR
カメラマン

・・・・・・・・・・・・・・
THIS IS IT
音楽監督

・・・・・・・・・・・・・・
専属画家
デビッド・ノーダル

・・・・・・・・・・・・・・

デビッド・
ワルチンスキー

・・・・・・・・・・・・・<
エンジニア
ロブ・ホフマン

・・・・・・・・・・・・・
プロデューサー
デビッド・パック

・・・・・・・・・・・・・
インパーソネーター
Navi

・・・・・・・・・・・・・
DORIAN
HOLLEY

・・・・・・・・・・・・・
アンドリュー
ロイド・ウェーバー

・・・・・・・・・・・・・
画家ネイト
ジョルジオ

・・・・・・・・・・・・・
Chris Apostle
Cory Rooney
Chris Yandek

・・・・・・・・・・・・・
ゴットフリート・
ヘルンヴァイン

・・・・・・・・・・・・・
Sam L. Parity
・・・・・・・・・・・・
マイケルの手紙
・・・・・・・・・・・・
David Perry
・・・・・・・・・・・・
Travis Payne
・・・・・・・・・・・・・
Tom Mesereau
・・・・・・・・・・・・・







マイケル・ジャクソンの専属画家の談話 
http://www.usatoday.com/life/people/2009-08-20-jackson-paintings_N.htm

画家、デビッド・ノーダルさんが1988年2月に家で絵を描いていたおり、深夜12時に電話が鳴った。
「マイケル・ジャクソンです。」と聞こえた。
『はいはい、そうですか』、とノーダルさんは思った。
が、すぐにいたずら電話ではないことを悟った。

スティーブン・スピルバーグの事務所を訪れたときにジャクソンは軍隊がアパッチの集落を襲っている場面で二人のインディアンの子どもを若い伍長がかばっている絵を大いに気に入った。
そこでジャクソンは画家に連絡をしてきたのだ。美術のレッスンを受けるために。

写真:ジャクソンの所有する絵画の画像

「マイケルは私が絵を教えているかどうか尋ねました。」と、ノーダルは語った。
ノーダルの19世紀のアパッチを描いた油絵は高く評価されている。
「教えていないけれども考えておきますと答えました。本当に忙しかったのでね。」

1時間にも及ぶ会話から強い友情が生まれ、ノーダルは美術界での名声を捨てて
ジャクソンの肖像画家として俗世間から離れた生活を送るようになった。
1988年から2005年まで、ノーダルは数千枚の絵と約12点の大作を完成させた。
そのうちの7点はジャクソンが中止したジュリエンのオークションに含まれていた。

描かれたものは、ジャクソンのの壮大なファンタジーやおとぎ話の世界観を取り込んだ絵が多い。
大型の三連画ではマイケルが王衣を着て冠を戴き、また騎士に命じられている。
フィールドオブドリームズの日の光を浴びた小道ではマイケルは様々な国籍の子供達の先頭を歩いている
(加えてジャネット、エイズの運動を行ったライアン・ホワイト、俳優のマコーレ・カルキンも)。
プリンス・ザ・ボーイ・キングでは、マイケルの長男が大きすぎる金の玉座に座ってうたた寝をしている。


ノーダル(68歳)は、ジャクソンのお気に入りの画家となっただけではなく、ネバーランドの乗り物や家 族で外出する際の相談相手そして親友にもなった。

ノーダルは何年もメディアを避けてきた。「どうしてかと言うと、メディアはネガティブなことばかり話したが っていたけれど私にはマイケルのことで何も悪く言うことがなかったからね。」穏やかな口調で彼は答 えた。

「私はマイケルを変だと思ったことがないんです。」ノーダルは語る。「マイケルはこれまで会った中で一 番思いやりがあって礼儀正しい人間です。この20年間一度も声を荒げるのを聞いたことがないんで す。」

始めの頃:意見交換

ノーダルがジャクソンと働き始めたのはジャクソンが1988年3月のバッドツアーの際デンバーに招待され たときである。

「どんな人なのか想像もつかなかったのです。マイケルは優しかったですよ。私達はギャラリーや本屋に 行き、ツタンカーメン王の展覧会をマイケルが貸しきったときも一緒に行きました。二人で座って笑った りしゃべったり絵を描いたりしていました。」

ジャクソンは才能を示したが、視覚芸術を追求するほどではなかったので、 二人でノーダルが描くアイデアを考えることにした。 まず、41インチ四方のPlaymates for a Lonely Child、そして次に36×104インチのField of Dreamsを仕上げた。

ノーダルは休みなく働き続けた。大型の肖像画、神話的な絵画、10フィートの木炭画、ネバーランド の門の装飾。ノーダルは以前ギャラリーに対して適用していたのと同じレートで請求した。(大作では $150,000まで。)そしてノーダルは必ず支払いを受けていたと言う。

ネバーランドをマイケルがサンタバーバラ北部に建築し始めてからはノーダルの業務は遊園地のデザイ ンにまで拡大した。ノーダルはジャクソンの魔法の国のような生活スタイルに対応しながらいくつかのプ ロジェクトを何とかやり遂げた。ネバーランドで二人は遊園地の乗り物を試験し、外国から取り寄せた 動物達の世話をした。

二人はディズニーランドへ行って、大富豪の邸宅で時を過ごしたが、そこではジャクソンの不眠症は、 ノーダルにとって早朝からの悪ふざけや浜辺でのおしゃべりを意味していた。(ノーダルはジャクソンの

悪名高いいたずらの被害者でもある。風船ガムがブリーフケース一杯に詰め込まれていたこともあった。)

彼が見たのは地味なジャクソンだった。ジャクソンは80年代後半にはChevy Blazerを一人でよく運転 していた(ガソリンスタンドで人だかりができるのを恐れてバケツで用を足していた)。そして、ロスの 2LDKのマンションに住んでいた。

「私は最初メイドがいるペントハウスを想像していたんです。台所に押し込まれたグランドピアノと、ポッ プコーンマシンそして素晴らしいサウンドシステムがあるだけでした。 他の家具はガレージセールで50ドル出せば買えるようなものでした。子供達の前ではマイケルは本当にシンプルに暮らしていたんです。」
なぜこんなに強い友情が育ったのか?

「私は難しい家庭で育ったんですが、マイケルもそうでした。」ジャクソンは1991年のDangerous、 1995年のHIStoryアルバムのライナーノーツでノーダルに対し感謝を述べている。

「絆があったのです。」

ノーダルも若年時代に苦悩していた

ミネソタ州アルバート・リーに生まれたノーダルは12歳のときに家を出て、農場や車の塗装屋で働い たり絵を売ったりして高校を卒業した。

「絵を描かなかった日を覚えていません。私の父は子供を虐待するアルコール中毒者だったので、 絵を描くことで現実の世界から抜け出すことができたんです。私は昔からずっとカウボーイやインディ アンに興味がありました。同じクラスの友達にローン・レンジャーの絵を売ってたんです。」

ノーダルは1977年にコロラド州スチームボート・スプリング州に移ってからアパッチを描くことを専門に した。彼の絵は綿密で、細部まで調査をしてから描かれていたのですぐにコレクター達が集まった。

「彼の作品には品位があり、才能に恵まれているのに謙虚であるというまれな芸術家の一人なん です。」と、サンタフェの美術品ディーラーは言った。ノーダルの作品は買い手が多いため抽選を行っ ていたという。

「彼の技術は時間が非常にかかる物だったので多作ではありませんでした。マイケルジャクソンのた めに絵を書くことにしたのでここを離れると言ったときには彼の作品を待っている人が約200人ほどい ました。彼の決断はとても面白いと思いました。」

「ジャクソンがデビッドの中に見たのは完璧な芸術家だったと思います。彼は完璧主義者でした。 彼は細部まで演出していました。それに、ジャクソンはデビッドの家族に対する思いを見つけたのか もしれません。デビッドは最初はアパッチ族の文化や生活を描いていましたが戦士だけではなく子供 達も多く描きました。それから動物、特に馬を美しく描いていました。」

ノーダルがジャクソンの中に見たのは傷つき誤解された天才でした。「ジャクソンは自分には子供達 を助ける義務があるという信念を持っていたのです。」

ジャクソンは2005年の少年性的虐待裁判で無罪になったが、それは「彼の意志をくじいてしまった のです」と、ノーダルは言う。「マイケルは子供にいたずらなんか決してしません。マイケルはいつも虐 待された子供や病気の子供達を気の毒に思っていました。重病の子供達と沢山の時間を過ごし ていたんです。瀕死の子供の母親がどこかから電話をかけてくるとマイケルはすぐに飛行機に飛び 乗ったのです。」

「ネバーランドはマイケルの個人的な遊園地だとよく言われていますが、本当は子供達のためのも のだったんです。私が最後にネバーランドにいたとき、巨大なソニーのジャンボトロンが病気の子供 達のために備え付けられていました。そうすれば子供達が夜に目が覚めてもアニメーションを見られ るので。」

マイケルは父親らしい父親だった

ノーダルはジャクソンが共感よりもむしろ嘲りを受けている様子に戸惑った。 「マイケルが白人になろうとしていると非難してますが、ばかげていますよ。」と彼は言う。 「初めてマイケルにあったとき、白斑(色素の欠乏をもたらす皮膚の異常)は顔の右側から首に広 がっていました。右手はほとんど白くなっていたのです。真っ白な斑点でした。マイケルはメークをする しかなかったんですよ。メークをしなければ、体中斑点だらけだったのですから。」

ノーダルはジャクソンが薬を使用しているのを目撃したことはなかったが、ペプシのコマーシャル撮影 中に髪の毛が燃えてしまった後から続いている痛みが問題だったのは良く知っていた。

「火傷した部分を修復しようとして医者はマイケルの頭皮の下に膨らませたバルーン(袋)を入れて いたんです。マイケルはその部分を触らせてくれました。そこは大きく盛り上がっていました。皮が伸 びた頃に医者は袋を取り出して皮膚を縫い合わせるんです。マイケルは非常に激しい痛みを味わ っていたんです。」(この処置は髪の毛のある部分の皮膚を、髪がない部分にかぶせるためのもの で、マイケルは火傷をした面積が大きかったので何年も行っていたそうですが、マイケルはルーパスを 患っていて結局上手くいかなくてやめた、とクライン医師が別のインタで語っていた。) ジャクソンは中毒者には見えなかったという。マイケルは、タバコ、アルコール、ソフトドリンクや砂糖な どを避けていたそうだ。

「マイケルはほぼ菜食主義者でした。ツアー中はシェフが魚や鶏肉を食べさせていました。マイケル は鶏手羽肉が好物でした。普通はお水を飲んでましたが、2回だけワインを一緒に飲みました。一 度は元の奥さんのリサマリーと、もう一度はロン・バークルの家で。マイケルは一杯だけ飲みました。」

ジャクソンの責任感のある性格はプリンス、パリス、ブランケットの育児に明らかに見て取れた。

「マイケルはハリウッド・パパではなく本物のお父さんでした。夜中に起きてミルクをあげたり、オムツを 取り替えたり、お風呂に入れたり母親がやることを何でもやっていたんです。」 「子供達と一緒にいるときに何かをねだったり叫んだりするのを聞いたことがありませんでした。とても しつけが行き届いていました。」

ジャクソンは子供達を甘やかさないように苦心していたと、プリンスの8歳の小さな誕生日パーティを 思い出しながらノーダルは言う。(ジャクソンの母、キャサリンと姉、リビーが来ていたが宗教のためお 祝いの部分は欠席したそうだ。)

「プリンスが何をもらうのか見たかったんです。きっとかなり豪華なものだと思ったので。でも、2ドル以 上のものは何ももらわなかったんですよ。粘土とか小さなアクションフィギュアとか、クリスマスの靴下 に入れて贈るようなちょっとした物だけでした。」

「子供達は勉強して成果を上げた時だけテレビやDVDを見たりビデオゲームをすることができたんで す。子供達にただ何かを与えるということはありませんでした。マイケルは、子供達にはできるだけ普 通に育ってほしいと言っていました。マイケルの子供はとても丁寧で礼儀正しくて本当に優しいんで す。」 


サンタフェへの突然の訪問

ノーダルは3人の子供全てと仲良くなった。通常、ノーダルがジャクソン家と過ごすのは西海岸だった。 だが、2004年のメモリアルデーの週末にはジャクソンと彼の子供達が贅沢なバス (60インチのプラズマテレビ付き)でサンタフェを訪問して驚かせた。ジャクソンは 映画を見に行こうと提案した。 「私は試写室へ行くんだろうと考えてたんです。運転手はデバーガスモールに 乗りつけました。マイケルはデイ・アフター・トゥモローの監督、ローランド・ エメリッヒと友達でした。映画が上映されて初めての週末だったので、モールは ごったがえしてて駐車する場所がなかったんです。私は子供達を連れてチケットと ポップコーンを買って中に入りました。マイケルは場内が暗くなってからやってきました。」 「明るくなったとき誰もマイケルに気づきませんでした。マイケルは野球帽を被って シルクのパジャマを着てたんです。子供達は仮面も何もつけてませんでした。 あの写真のためだったら新聞社は100,000ドル払ったでしょうね。」

絵画の今後は不透明

ノーダルがジャクソンに最後に会ったのは2005年で、そのときジャクソンはバーレーンに 移住し二度とアメリカには住まないと誓っていた。ジャクソンが海外に去って、 ノーダルはその静けさになじんだころ、再びアパッチを描き始めた。 ジャクソンが新しい家と所有品を展示する場所を見つければまた呼ばれるだろうと考えていた。

ノーダルがジャクソンのために描いた絵画の運命は、ジャクソンの展覧会に使用される可能性 はあるものの、未だ曖昧なままである。
「私はマイケルジャクソン美術館に絵画が展示されているところを見たいのです。
マイケルはそれをずっと目指していました。
とても控えめな人でしたが、同時に自分が音楽界のアイコンであることも理解していましたからね。」


ノーダルはアパッチなどを主題にした絵を描くキャリアに戻った。

長期の空白期間がノーダルの地位や評判に悪影響を与えるかどうかは判断が難しいと
ディーラーは言う。「彼のキャリアが更に発展したと言えるかどうかわかりません。
一人のパトロンのために働くアーティストはパトロンが作品を発表するか展示しない
限りは孤立しています。でも、デビッドはずっと独立していましたし、決して名前
を売ろうとは考えていませんでしたから。」
それにキングオブポップがパトロンになる可能性はどれぐらいだろう?

「私達は本当に仲良くなったので誰と遊んでいるのか忘れてしまうほどでした。
そんな折、マイケルは稲妻のように鋭く踊り始めるんです。
そして、そのダンスで彼は世界一のエンターテイナーだと納得したものでした。」   終わり

http://www.michaeljacksonart.com/categories.php?cat_id=8
こちらにもノーダルさんの言葉がちょっとあるけれども、
マイケルが常にノーダルさんに言ってたという言葉「僕達みんなこの世界で目的があるんだよ。
僕のは子供達を助けることなんだ。」と、
ノーダルさんが最後に「I will miss Michael eternity.」というのが印象に残った。

マイケルを描いた絵が紹介されたビデオがありました。
http://www.youtube.com/watch?v=o4j_qv_Gcyo









 
inserted by FC2 system